おかげさまで忙しい日々を送っております、ふじやんでございます。
仕事の合間を縫って、ようやく見つけた時間で書きたいことをサササーっと書いてしまおう!
と筆、いやマウスをとりました。(今やもう「筆をとりました」なんて滅多に言わなくなりましたね。)
さて、昨日の朝日新聞に谷川俊太郎さんへのインタビュー記事がでてました。
お読みになられた方もいらっしゃるでしょうか。
かつては若者のたしなみであり教養でもあった「詩」。
しかし現在は社会の表舞台から姿を消したようにさえ思える。
詩は何処へ行ったのだろうか?
というのがテーマです。
谷川さん曰く、「詩はコミックスの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、
そういう、詩と呼ぶべきがどうか分からないもののなかに、
非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで
詩的な欲求を満足させている」のだそう。
『詩』にはふたつの意味があるとおっしゃっています。
ひとつは、詩作品そのもの。
ひとつは、ポエジー、つまり詩情。
詩情は、言語化できるかどうかもあやしく定義しにくいけれど
時には絵画や音楽に姿を変えて、どんな人の中にも生まれてくるものであると。
谷川さんが初めて詩情を感じたのは小学生の頃で、
隣の家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見たとき。
「生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。
美しいと思ったのでしょうが、美しいということばだけで言えるものではなかった。
自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね。」とおっしゃいます。
ん~、なるほど。そういう瞬間、ありますあります。
いわゆる『現代詩』というものは、『詩』本来がもつ人々をむすぶ役割から離れ
自己表現・新しいことをしているという自己満足を追求してきたがゆえに
詩人を孤立させてしまったのだと。
うんうん。詩ってよくわからないこと、多いイメージ。
谷川さんが見ている詩の世界観を表現しているという作品が紹介されていました。
『一粒の砂に 世界を見
一輪の野の花に 天国を見る』 ウィリアム・ブレイク(イギリス)
また、谷川さん自信が目指すのは
「美しい日本語を、そこに、一個の物ののように存在させること」なんだそうです。
『はなののののはな はなのななあに
なずななのはな なもないのばな』
これは、谷川さんが幼児向けの『ことばあそびうた』で書いた詩なのですが、
幼稚園の先生から「気持ちを表現していないので教えられない」と苦情を言われたそうなんです。
短歌の伝統が色濃い日本人にとって『詩は自己表現である』という思い込みは根強いと。
例えば『古池や蛙飛び込む水の音』には何のメッセージもないけど、
そこには、ことばの音、声、手触り、調べ、そういうものがある。
津軽弁の詩の朗読を聞いたことがあって、意味はまったく分からないけど
とても美しい響きに感動した、それで共通語訳を読んだら立小便をうたった詩だった。
そんな経験もあるんだとか。
わたし自身、べつに詩を好んで読んでいるわけではないんですが、
昔からなんとなく気になる存在だった中原中也の詩集をひとつ持っています。
そのなかで、意味はあまり把握してないけど音だけ好き、という理由で
気に入ってる「サーカス」という作品があります。
『山羊の歌』より
幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて
汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)
夜は劫々(こうこう)と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
この「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」が、何気ないときにふわ~~っと
頭に浮かんでくるときがあるんですね。
長くなりすぎて、うまくまとめられなくなっちゃいました。
サササーっと書くって言っといてかなり時間が経っている!!
まま、そんなわけで、みなさんも、たまにはポエジーに浸ってみるのもいいんじゃないかな?
ふじやんでした!
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