能。
皆さんご存知だと思います。
でも詳しくは知らないのではないでしょうか。
能って日本の文化や芸術の代表として国内外に向けて発信されていますが、
現代の日本に定着しているかというと、
はっきり言ってそうとは言えないと思います。
能は奥深いもの。
能は素晴らしいもの。と聞かされて、
皆一度は見たいと思ったり、テレビで見たり、
実際に見に行ったりしているはずなのに、
なぜか心が引き寄せられない。
離れてしまう。
難しいから・・・。
現代の日本人にはそういう方のほうが圧倒的に多いでしょう。
なぜでしょうか。
素人考えで考えました。
それは多分演劇だと思って見るからじゃないでしょうか。
能は現代の日本人が見慣れたいわゆる演劇とはあまりにちがいます。
状況を説明するような舞台セットはなく、
セリフは聞き取りにくく、
シテの顔は面で隠されているため表情からは感情を読み取る事はできない。
いわゆる演劇を観るのに必要な情報がくみとれない。
だから「能って難しい。」となるんでしょう。
しかしそもそも能の演目は、リアルに組まれたセットの中でストーリーを現実さながらに演じるものではないのです。
ストーリーを伝える事は比較的重要ではないのでしょう。
能は極力簡素化された舞台で極力簡素化された動きと、謡(うた)・囃子(音楽)を出来る限り記号に近い形で観客に発しているのだと思います。
無駄なものはなく、あいまいな物もありません。
白か黒。
無機質という表現に近いかもしれません。
ただそれらとは対照的にシテ(主人公)の感情だけが、ゆらめいたり激しく震えたり白になったり黒になったり無駄であいまいでどこまでもグレーで人間味にあふれていたりする。
シテの感情以外のすべてを極力簡素化することで、
ただ観客の目を楽しませたり頭でストーリーを追わせるのではなく、
シテの内面や精神を、
観客の内面や精神に直接投影しようとしている。
ただ記号を読み取る基礎知識は最低限必要ですが、
そういうことなんじゃないだろうかと思います。
世阿弥についての文章を読みました。
乱世に生き、生きる事を真面目に考え続け、死をも見つめる、そういう精神の緊張と深みをもっていた彼が洗練させた能精神は今も伝わる。
能を通して「死をも癒す深み」を感じる事が出来る。
というような内容でした。
今の日本に他に「死をも癒す安らぎ」を感じさせるものがあるか考えてみましたが
宗教以外には思いつきませんでした。
宗教ではなく芸術の域を越えることなくそれをなしとげた彼はすごいと心からおもいます。
世阿弥の生きた頃とは比べ物にならないほど現在の日本は物に溢れ、
不自由なく平等で平和といえるでしょう。
生きる事を真剣に考える機会も少ないし、
「死をも癒す安らぎ」を切に欲することも一見ないように思います。
だから日本は宗教が廃れ無宗教の国になったのでしょう。
そして同じ理由で能も需要が少なくなったということでしょう。
それと共に花鳥風月を愛でる心や能を楽しめる精神性も失ったといえると思います。
でも、だからこそ現代人の心は乾き、深く癒されたいという気持ちも強いはずです。
「死をも癒す安らぎ」とはもしかすると現代全てのもの作りに携わる者の究極のテーマなのかもしれません。
というかこれはいつどんな時代でも、究極のテーマになりうるキーワードのような気がします。
私はもの作りに携わる者として、
まずは能を心から楽しめる精神を手に入れるべく
精神を磨いていこうじゃないかと!
こう思う次第であります。
投稿者:さけ
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