いやぁ。
あたしはやっぱり日本が好きでね。
いぶし金の方々が好きなわけでね。
チベット仏教というと興味が全くないというと嘘になりますが
あの金ぴかの方々ですよねぇ・・?
目力系の・・ねぇ・・・。
というかんじでね。
そこまで心高鳴る感じはなかったので
まぁそれなりに構えて行ったつもりですけどね。
見てみましたら、まぁまんまと度肝を抜かれましてね。
もうまるっきりずっぽしと抜かれましてね。
あたしの肝はいったいどこへ行ったんだということでね。
それはもう終始向こうのペースでございました。
あたしは恥ずかしながらだいぶと小心者でございましてね、
いつも新しいものに出逢いますと
少し離れたところからまずチラ見をしましてね、
それがいったいどういうものなのか、
そして自分が許容できるものなのか少し頭で考えてね、
一歩二歩と近づいて見るうちに、
あら、すてき。
うん、これいいわぁ。
あたしこれとっても好き!
というふうなね、段階というか
まぁそういった過程を無意識に踏むんですがね、
今回はそんな余裕は全くございませんでしたよ。
皆さんも気を付けてください!
もう向こうからすごい勢いでもって、一方的になだれ込んで参ります。
こっちがチラ見で様子でも見ようものならね、
それこそ瞬時に見つけられましてね、
「あらー!どしたのーあんたー!
そんな遠くから見てないでこっちへいらっしゃいなー!
一緒に踊ろうじゃないの!
ステップなんて関係ないから!
あ~考えちゃダメダメー!ドントシンクなのよ~。
フィールよフィール~。」
てな具合にもうあれよあれよという間にほとけの輪の中に、
輪の中どころか曼荼羅の真ん中に手を引かれて連れて行かれて
あら大日如来様はどこかしらなんて思うまもなく
激しいダンスを強要されるような。
そんな感じ。
でもそれがまた不思議なことにいつの間にかこっちも負けじと踊っちゃってね。
悦に入っちゃってもう抜けらんない。
そんなかんじ。
しかしです、皆さんご存知のようにチベット仏教は厳しい気候風土で培われた
厳格な戒律を持つ仏教の一派なのです。
とっても厳しいの。
ね。
どういうことでしょうかねこれは。
すごくギャップを感じるんです。
日本で煩悩に漬かりきって生きている私なんかはまんまと翻弄され混乱するわけです。
そうするとこっちのペースにもちこみたくなって必死に考えるんです。
理屈で分かると安心するからね、そっちへそっちへ持っていこうとするんですがね、
もちろん私なんかにチベット仏教が理屈で分かるわけがないんですね。
そうこうしてる間にまたいつの間にかまんまと踊っちゃっててね、
そうして心奪われ前のめりになっていると不思議なことになんとなく理解できたきがしたりして。
ねぇ。
わたくし圧倒されてぼんやりしながらこんなことを考えました。
例えば千本の手を表現する時
手を千本作るのは大変だし、どうしても不自然になってしまう。
だから1本=25本ということにして
40本で1000本という理屈にしよう。
合掌している2本の手とあわせて42本。
これが日本の一般的な千手観音の形ですね。
でも今回見たチベットの方はちがいます。
「やっぱし付くだけ付けたほうがいいよね。」
「だって千っつったらすげぇぜ。
端からぎっちぎちで詰めてかねぇと収まんねぇからさ、覚悟を決めて詰めていこうぜ。」
「けどこれ1000ってことは右に500左に500ってことだよね。いけるのかな・・。」
「いけるでしょ。」
「・・・あれ今何本目だっけ。」
「バカ。おめぇ全部で1000だぜ。1000っつったらすげぇ多いんだぜ。
悠長に今何本目かなんて考えてたら付くもんも付かねって。
一心不乱に付けんだよ。
もう数えられないほどのボリューム。
その圧倒的なビジュアルこそが俺達の「千」なんだよ。
つまんねぇこと考えてないで付けろって。
ほら、そこ隙間開いてんぞ。」
多少不自然になるけれどかえってそれが
想像さえできない超人的なほとけの力を現すだろうと。
そんなかんじなんですかね。
わかんないすけど。
実際きちんと1000本なのかもしれないですけどね。
日本にも1000本の手を持つ千手観音様もいらっしゃるしね。
でもなんか違うんです。
まぁなんしかそのぐらいのインパクトなわけです。
悟りを得るために自らを戒め厳しい修行をする。
そうではなくて
まず直感で分かる。
そこにたどり着く方法は後で考える。
そして苦しくとも厳しくともそこにどうしても向かってしまう。
そんなかんじなのかなと思いました。
まぁ思っただけでね、
全然違うよって怒られちゃうかもしれないけど、
わたしはそう感じたのです。
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