ココロワークスの仏部(仏像同好会)がお寺や仏像について語ります。

go!開帳!

2009 4月17日 17:38

どうもみなさま。ぶちょうです。
ごきげん麗しゅうございます。

すっかり春。
ちょっと暑い。

春といえば、ご開帳。
ご開帳といえば仏部の活動が活発になる季節。


さて。
春になると、美術館だのお寺の宝物館だので
いろんな仏像を御目にかかる機会がぐんと増えます。
それは、いったいどなたのお陰なのでしょう・・・?


ということで、今日はひとつ小難しいおはなし。


長いので、先に要約述べます。
全部読んでやってもいいよ、という人は全部読んでみてください★

いま、いろんな仏像を見れるようになったのは
外国人の仏像好きのおじさんのお陰だよ。
日本美術を賞賛して、世に残してくれたのもそのおじさんだよ。

そんな話です。


では、どうぞ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


アーネスト・F・フェノロサ。

日本史の教科書に載っていたのを思い出した方もいらっしゃるでしょうか。

彼は日本の美術をこよなく愛し、西洋化の波から
日本の美を守り抜いた男、日本人の恩人とも言える人物なのです。


さて、時は1853年。わが日本国に黒船がやってきたその年、
はるか遠いアメリカ・マサチューセッツ州にフェノロサは生まれました。
まれにみる秀才であった彼はハーバード大学で哲学を学び主席で卒業、
哲学だけでは飽き足らず、その後美術学校にて絵画を学びました。

25歳の頃、世間に馴染めなかった父親が自殺。
13歳の頃すでに母親が病死していた彼にとって
その死はあまりに衝撃でありました。

当時のキリスト教社会において、自殺は神の冒涜。
残された家族を見る社会の目は非常に冷たいものでありました。
たった一人残されたフェノロサとて同じ。

「この先、どうすればよいのだろうか・・・」

放心状態の彼を救い出したのは、母校ハーバード大学に張り出された
一枚の求人情報でありました。
日本の東京大学にて教鞭をとる動物学者エドワード・モースによる募集です。

「東京・・・!」

フェノロサは何か運命的なものを感じ、
すぐさま東京へとやってきたのでした。

明治11年―

明治維新による欧米化の波に押される日本社会。
先進国の文化に追いつこうと、政府は学者・技術者・軍人など
多くの欧米人を「お雇い外国人」として高給で雇い入れておりました。
しかし、1877年の西南戦争を機に財政難に陥り、次第にその数は減ってゆきました。
かの大久保利通が暗殺され、殺伐とした暗い空気が流れる...。
フェノロサが来日したのは、そんな時代でありました。


来日後、彼はすぐに仏像や浮世絵などの
様々な日本美術の美しさに心を奪われました。

「日本では、全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、
日常用品、枝に止まる小鳥ににさえ美を見出し、
最下層の労働者でさえも山水を愛で、花を摘む。」

そう書き記し、古美術品の収集や研究をはじめると同時に
鑑定法を習得、全国の古寺を旅したのです。

しかし、明治維新後の日本は、盲目的に西洋文明を崇拝。
日本人が考える芸術=海外の絵画や彫刻でありました。
日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いで、
かつての日本画壇であった写楽・北斎・歌麿、
狩野派や土佐派などの代表流派は世間から忘れ去られている、
そんな有様でした。

日本人がもつ繊細で美しい心―。

日本人しか持ち得ない、その美的感覚を日本人が忘れてしまっている。

彼は大きなショックを受けました。

仏像・仏画の分野に関しては特に酷い状況でした。
1868年、政府は明治天皇や神道に権威を与える為に「神仏分離令」なるものを発布。
仏教に関するものは破壊され無残にも打ち捨てられてしまいました。
大寺院でさえ寺の領地を没収され、
生活を守る為に寺宝を叩き売りするほどであったといいます。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と呼ばれる
日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行は8年間にも渡り、
全国に10万以上あった寺の半数が破壊され
数えきれないほどの文化財が失われてしまったのです。

そんな状況に強い衝撃を受けたフェノロサは、立ち上がりました!
自らの文化を低く評価する日本人に、日本文化がいかに素晴らしいかを熱弁し
ついに文部省にまでのり込んだのです!

その時、27歳。

文部省に掛け合い、自らが「美術取調委員」となり
当時学生であった岡倉天心を助手として本格的な古美術品の調査を開始。
こうした活動の中でさらに日本美術の虜になった彼は、
過去の作品ばかりに目をやるだけでなく、新しい日本芸術を生み出すべきだと
考えるようになりました。
滅亡寸前の日本画の復興を決意し、各地で講演を行いました。

「日本にしかない芸術がある!」

西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はついに目覚めました。
新政府が、28歳のアメリカ人の熱意によって動き出したのです!
フェノロサの講演を印刷し全国に配布、日本画のコンクールを開催。
新たな日本美術の道を歩み出しました。

そのコンクールの審査員を務めたフェノロサの目に留まったのは
かつて名をはせた狩野派の絵師・狩野芳崖(かのうほうがい)の
作品―粗末な紙に描かれた「布袋図」―でした。

当時、芳崖はかつての名声むなしく
明治維新のあおりを受けて職を失っていました。
誰も見向きもしない作品を褒め称える外国人の熱意に
頑固な芳崖も心を動かされ、新たな日本画を描く事に挑戦し始めたのです。
芳崖の生活費はすべてフェノロサが負担。
フェノロサの熱意は本物でありました。


1883年、フェノロサは日本人が愛する「幽玄」の精神を学ぶ為に能楽師のもとに入門。
翌年31歳で政府の宝物調査団に任命され、当時文部省職員となっていた
岡倉天心とともに、再び奈良や京都の古社寺を調査しました。
 
その最大の目的は奈良法隆寺・夢殿の開扉。

一千年もの間、閉ざされてきた扉。
夢殿の中には住職でさえ見ることができない「絶対秘仏」である
『救世観音像』が安置されており、
開けると地震が起こりこの世が滅びると信じられてきた、
その扉を彼はついに開いたのです!!

包帯でぐるぐる巻きにされた観音像。

すべての包帯をとりのぞくと、
美しく穏やかに微笑む姿が彼らの前に現れたのです。
そこに居た者は皆、驚嘆し声を失ったとか。
もちろん、この世は滅びることはありませんでした。

32歳、『救世観音像』との運命的な出逢いにより
フェノロサはキリスト教徒から仏教徒へと改宗し、
滋賀県・三井寺にて受戒、「諦信」の法名を授かりました。

その後、彼は画家・芳崖の為に多くの顔料を取り寄せ、
芳崖もまたその期待に応え素晴らしい作品を描き上げました。
それは大きな話題となり、若手の画家たちを刺激しました。

フェノロサと天心は欧米の美術界の現状を調査すべく渡航し、
国立美術学校の必要性を痛感。
1888年、岡倉天心は日本初の芸術教育機関である
東京美術学校(現・東京芸大)を設立し校長となりました。
フェノロサは副校長として、日本美術界に多大な影響をもたらしました。

1890年、37歳で帰国。
その後も日本美術を広める為に力を注ぎましたが、
1908年、ロンドン滞在中に急死。
享年55歳でした。

生前、彼は三井寺に埋葬されることを望んでいたことから
今も琵琶湖を見下ろす地に眠っています。

戒名は「玄智院明徹諦信居士」。

1897年、日本では彼の調査を元に文化財を国宝に指定して保護する
「古寺社保存法」なるものが制定されました。
今、我々が目にすることができる貴重な文化財は
まさにフェノロサのおかげなのです。

彼が日本に来なかったら、わが国はいったいどうなっていたんだろう。
今頃、どんな文化の中で暮らしていたんだろう。

自分達の文化を否定し、破壊してしまった事実。
そして、日本の美を復活するチャンスを与えてくれたフェノロサという人物。

そういう歴史があることを、
もっと多くの日本人が知らなければならない。
そして、それを忘れてはならないと、私は強く思うのです。

仏部が今、活動できるのはまさにフェノロサさんのおかげなのです!
ありがとう。フェノロサさん。


今度、お墓参りにゆきますからね。

ものっすごく長くなっちゃいましたね。
最後まで読んでくれた人、ありがとうございました。
南無。

 

記載者:ふじやん